オンデザインの暮らし

オンデザインの日々や、暮らしの中での発見 を紹介しています

ONDESIGN PRINT 対談


ムシェット代表の行定勲氏(映画監督)と西田が
設計におけるプロセスコミュニケーションについて話しました。
(※注 4700字相当のロングインタビューです。
「ムシェット夏の家」の作品対談は、住宅特集4月号に掲載されてますので、
そちらもあわせてご覧下さい。)



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私たちオンデザインはクライアントとプロジェクトを進める際、その過程をどうデザインするかを考え、模型やプレゼンテーションブック、現場のやりとりなど、様々なコミュニケーション手法を探っています。そうしていく中にも、相互理解できるところと不透明なところが常にあり、今回はその隔たりについてどう感じていたかを、プロジェクト期間を通しての体験や、映画監督というご自身の職業的立場から伺いたいと思います。


私の主観で言うと、映画監督というのは「ずるい」と思ってるんです。何故かというと、絵コンテなどに表れるように、自分の中で理想形が確立しているんだけど、それを初めに言ってしまうと面白くないから言わない。むしろ自分の理想を引き出してもらうことのできる才能を持った人と出会うことが重要だと考えています。カメラマンと出会う。シナリオライターと出会う。俳優と出会う。美術監督と出会う。一緒に仕事するかを検討するうえで、彼らが今までやってきたことが重要な基準であることは間違いないんだけど、その成果だけ参照しても何の意味もない。で、どうするかというと、彼らに対し、どうとでも捉えられるような映画の筋書きを伝えるんです。それをどう捉えられるかが映画のスタッフの優劣の問われるところで、その反応が好きなんです。建築の話に直すと、はじめて会った建築家に、何人住まいですか?何LDKですか?とか聞かれると、すごい冷めちゃう感覚です。枠で捉えて考えているのが見える。自分たちの枠に引き込んでクライアントを「だます」という行為に感じられてしまう。そんなときは、簡単にだまされたくないぞと身構えてしまう。

何にせよ才能のある人間には「答え」を言わないというのが一つの流儀だと思います。その方が後々に選択していく面白さがある。自分が思いもつかなかったことがシナリオに含まれていくから、修正していったり、いいところだけ使ったりできる。これが「ずるい」っていうことです。今回は建築家と施主という関係でしたが、お互いの理念を小出しにしていくのが一番面白いし、裏切られたとしてもそれでいいと思えることが大事だと思う。そうして生まれていったものは、自分の中に新たな発見ができる。自分が本当に求めていたものが明確になっていくんです。
建築家にとっても、最初に理想を提示されたうえでそれに則って作っていくことは楽をすることなんですよ。「裏切ること」を目標にしていかないと、多数の人々が関わって行うクリエイトっていうものは成立しなくなる。絵画や写真などは個人で行うクリエイトですが、建築はそうじゃなくて、思い通りに行かないところが絶対に出てくる。そこが映画と同じだと感じました。今回の計画は3年くらいかけてやっているものなんだけど、その長い期間の中で西田さんという人をどう巻き込んでいくか。一番いいものを目指すうえでそれをとにかく考えていました。
映画にしても、儲からないプロジェクトだったけど、なんかやってよかったよね、と思えることが重要なわけで、それを目標にしているんですよね。偶然の積み重ねで進んでいったことだから、初めから予想できたかっていったら全くそうではないんだけど、でも出来上がったものは必然だって思える。こういったやり方をやりにくいとは思わないですね。


「裏切ること」に関連し、お聞きしたいと思います。いろいろな段階のプロセスを経て、建物が完成し、使い始めてみて、設計中や竣工時に感じていたものとのギャップというか、感覚のズレというものはありますか。


裏を返せば「発見」があるということですね。映画監督って、往々にして完成した後の作品は観ないものなんですよ。それでしばらくするとテレビでその映画が放送され、それを偶然に目にするとき、当時の思い出とか記憶を辿りつつ観る。そうするとそこで新たな発見がある。「あーこいつ意外といい演技してたな」とか。撮ってるときあれだけ吟味して観てたものなのにね。今回の建物でも、西田さんがどこまで意図してたのか、偶然なのか必然なのか分からないけど、同じようなことはありますね。「あっ、こんな所この角度で、こんなにきれいな星空が見えたんだ。こんな意図があったのか」って。でも大切なのはこの新しい星空を手に入れたという発見で、その瞬間に、ああ、これでよかったんだなって充足感が訪れる。片や、部屋にある設備とか使いにくいな、でもこれも味だなと思うところもある。結局良い所も悪い所も、後から発見していることのほうが多くて、この庭だからこの犬を飼おうって後から決めたし。事の決まる順序が逆になることが、結構好きです。映画でも逆になることがあって、観客の感想を聞いて発見したり、評論家がこう観たって言って、いやーそんな風に思ってなかったけど、そうとも言えるなって思って、また発見したりする。

人間というものはどれだけ手塩にかけて作ったものでも、建てた家でも「なんだ、こんなものか」っていつか感じてしまう。ただそこに自分だけじゃなくて他人の思考が介入してくるだけで、後から発見されることが格段に増えて、「あっ、そんな意図があったんですね」「いや、それは初めから考えていたんですよ」ってなった時に、ああ、してやられたなって思うわけ。作っている間ずっと近くで眺めていられるものではないから、全部把握することは不可能です。だから私は、ある程度のところで作っている人たちに任せる。さっきも言ったけどそれが礼儀なんですよ。

注文を言わないでも、言えないでもないし、勿論ああしてくれこうしてくれって言えるんだけど、判断してくれって言われたら判断はする。その中でできるだけお任せする。出来上がった後にあれこれ考えること自体がいいと思う。それは映画と同じ。なんであの時こうしちゃったんだろうって、後から考えてみてもそれには理由がなくて、冷静になってみると、当時助手が言ってたことの方が正しかったかなーなんて思ったり(笑)。作ったものが完璧であればあるほど嫌になっていくんです。家づくりも一緒ですよ、予め受け答えの決められたインタビューのように作るのはどうかと思う。何かもっとないのかなと。


映画制作の意欲・思考との重ね合わせはとても新鮮でした。その辺りについてもう少しお聞きします。3年のプロセスを経て、今また瀬の本のプロジェクトにも関わっていただいていますが、行定さんは、建築の分野にコミットしていくご自身のモチベーションについてどうお考えでしょうか。

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単純に建築は面白いなって思うところがあります。まず映画に比べて制作の自由度が高い。なぜかというと映画は大衆を相手にしているから。建築、特に住宅の場合はクライアント一人を納得させられればよいからより自由ですね。まあ自分の要望に頑なな施主ではなく「面白いですね。ぜひ予算内であればお願いします」って言える人という条件はあるけど。
映画も同じように「このくらいの予算でお願いします」というように思われがちだけど、実際はそうではなくて、大衆を相手にしているから、制作の内容に制限が出てくる。この内容難しすぎるね、分かる人少ないよって。建築だとお爺さんのために、あそこにもここにも手摺りつけてくれってなる感じ。バリアフリーバリアフリーって。
でもお爺さんは上に行けなくてもいい。行きたければ家族の誰かが手を貸せばいいじゃないって、私は思うんですよ。みんなが上で楽しそうにしていて、お爺さんは下の部屋で孤独に過ごしている。それを見た孫が下りていって「おじいちゃんと一緒にいる」って言ったときにはじめて愛情を感じる。それでいいじゃない。さらに言えばその場面を見た他の人々も下りてきて、みんなでおじいちゃんを上に担いでいって。その肩越しにおじいちゃん泣いちゃったりして(笑)。それがドラマなんですよ。
だからみんながみんながってなっていくのはよくない。今の日本映画みたいになっちゃう。誰もが楽しめる映画、みんなで楽しめる映画って??。『世界の中心で、愛をさけぶ』だって当初はみんなが楽しめる企画じゃなかった。これ当たりますかねぇなんて言ってたのに、みんなが観はじめたらみんなが楽しめる映画になっちゃうっていう…。建築のほうが自由でいいですね。ただ自由だからこそ建築では容赦しないぞ、と今回家を建ててみて思いました。具体的にはどうするかというと、何でも言う、と(笑)。瀬の本プロジェクトについていえば、初めは森を上手く使っていこうっていう話でブレストしてて、そこに参加させてもらったときに、この場所でいくつかの映画のイメージを思いついて、それを好き勝手に話させてもらったんだけど、それも含めていろんなことがまとまっていって一つのかたちになっていくのは、映画制作のプロセスと何も変わらないなと思いました。ただここを作ろうと言ってる人が数人だから映画よりは幾分か楽なんですよ。自分の考えが実現する確率が高いですね。

映画のほうがもっと大変です。すごい泣ける映画だけど、表ではコメディーですっていって本当は勝負してみたい。でもやっぱり最初に泣ける所を見せないと観客は集まらない、それが映画ですね。それに比べて建築はまだまだ可能性にあふれていると私は思いますよ。だけど建築家はカタチや自身の枠やスタイルに固執している人が多いように見える。せっかくいろんな可能性があるはずなのに作家性に埋没していっちゃもったいない。
建築は、利用する人からすれば、映画のセットと同じようにある部分を覗いて見たり、あるいは寄って体験したりするわけじゃないですか。そう考えると建築はもっと空間芸術より時間芸術的になるべきなんじゃないかな。だって俯瞰的に自分の家を眺めて、おお、あそこいいなぁなんていう人は、そうそういないでしょう(笑)。


まさに言い得て妙です(笑)。貴重な比較論をありがとうございます。


いや、明日になったらまた違うこと言ってるかもしれないけどね(笑)。一つのことからどんどん派生していくからね。できたら建築もそうあってほしいですね。ただ形あるものだからどうしても限界はあるだろうとは思いますが。


形や構造を与えようと試みると、ついつい視野が退いていってしまい、作品全体の話が作家のモノローグに陥りがちです。そこに共感は生まれないですね。そこをどうデザインコミュニケーションするかだと思います。


模型ではこう見えてるけど、実際はやっぱり違うじゃないですか。その違いはやはり「発見」ということだと思う。どうしても私はコンセプト的なものは打算に見えてしまいます。建築家がそれを用いるのも打算だと思う。そういう設計で話題に上がっても人気が無くなれば誰も見向きもしなくなりますよ。俳優とかと一緒だよね。あの頃あいつ人気あったよなーって。もう誰も相手にしてくれない。建築もいずれそうなってしまう可能性もある。そんなことを考えたりもしますね。


全てを共有物化できないからこそ楽しめる「裏切ること」「発見」は、計画段階でも使用段階でも、建物により親密さを与えるきっかけになりえますね。どんなプロジェクトでも、その苗床を継続的に蓄えられていければと思います。
本日は大変多くのお話をいただきありがとうございました。



行定 勲  映画監督
1968年熊本県生まれ。映画『OPEN HOUSE』で初監督。次作『ひまわり』は、第5回釜山国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞。『GO』(第25回日本アカデミー賞最優秀監督賞・最優秀主演男優賞・最優秀助演男優賞・最優秀助演女優賞)の成功で一躍脚光を浴び、『世界の中心で、愛をさけぶ』、『北の零年』、『春の雪』などの監督作品で不動のヒットメーカーとなる。近作『パレード』で第60回ベルリン国際映画祭パノラマ部門国際批評家連盟賞受賞。